徳川幕府 #日本史 #どうする家康 #家康 #秀吉 #頼朝 #義時 #呪い

徳川家康

「どうする家康」

終わりましたね。
「落ち」として、半ば「春日局」の妄想話に持ってゆきました。
しかし、徳川家康という人物。分厚い政治家として一定の評価をしている私ですが、あんなに白々しく美化されてしまっては、薄っぺらい人物に見えてしまいましたし、返って「冒涜」している様にも感じました。そこが残念です。
晩年の家康
「自分が生きているうちに」
1614年、老体に鞭打って「大坂の陣」を起こし豊臣を滅亡させ、翌1615年夏の陣の後に勅許ちょっきょ(天子さまからの許可)を得てまで、神号「豊臣乃大明神」を剥奪。家康の直接指示のもと「豊国神社」を跡形もなく破壊させました。
豊臣を思わせるものは、全て地上から消し去りたいと思っていたのは、確かです。
それだけ、当時の豊臣人気も根強かった事でもありますが、消し去ろうとしても、記録者の多い、日本の風土、文化の下では消しきれませんでした。
そのくせ、自身は、神号を得て「東照大権現」となりました。
秀吉の五奉行制度を真似、大坂を中心とした物流経済を踏襲し、秀吉同様に「神」になりました。
「これで、徳川も安泰」
多分、徳川家康は、満足して亡くなったと思います。
しかし
三代将軍・家光が大の家康好お祖父ちゃんきだったことから、徳川の屋台骨がじわじわと崩れ始めたと言われます。
現在の日光東照宮は、家光が祖父の為に建立したものですが、費用は江戸築城時には諸大名に負担させましたが、東照宮に関しては徳川家の財力で造らせました。
ここから、徳川家の財政が傾き始め、ゆっくりと、そして慢性的な財政難に陥っていったと言われています。
何時の頃からか、江戸城内には畑が作られ、出入りの商人に野菜を売りつけていたとの記録もあります。
海上
特殊メイクした小栗旬さんが演じておられました。
吾妻鏡」を引き合いに、権力者側の歴史捏造を正当化する様なセリフを言わされてましたね。
源頼朝の革命
頼朝は二つの革命を起こしました。
一つは、朝廷の許しなく、勝手に諸侯に所領を与え始めた事。(これによって、事実上、武士の独立を宣言した事になる)
もう一つは、肖像画「似せ絵」を描かせた事でした。
世界屈指の肖像画「伝・源頼朝」ですが、頼朝でなかったにせよ、鎌倉当時「似せ絵」は「呪詛」、つまりは呪いに使われるとして忌み嫌われていましたから、あの肖像画は画期的な行いだった訳です。
影のフィクサー北条義時は、多分、呪詛を恐れたために肖像が残っていません。
まあ、あれだけ、政治的に惨い事をやっていたのなら、呪われてもおかしくはありませんね。
これが、戦国時代になると、合理的な考え方から「似せ絵」を残す、大名は多くなりますが、「呪詛」の迷信はまだ残っていましたから、中には「肖像画」を嫌う大名も居ました。
多分、「(武田)諏訪勝頼」もその一人だったのかもしれません。
父・武田信玄の立派な肖像画に対して、明らかに想像図と思える肖像画しか残っていません。
ともあれ
今回の大河が終わった事は、良かったと思います。

北条義時 想像図
武田勝頼
武田信玄

「勝頼と信玄」肖像画で観る限り、二人が親子とは思えません。

過去の記事から

日本史は、世界でも文献、記録が多く残されています。他国であれば、権力者のみに歴史を刻む資格があるので、意外に歴史的文献は少ないです。国によっては、殆ど文献が無く、近代になって近隣諸国の記録を頼りに、歴史を起こさなければならない。という、国もあります。
日本史の記録とは、結局、天皇の家臣、家来たち同志の争い事なんですね。加えて、公式記録の他に民間が記録を残しても、殆ど咎められていないのも、面白い所です。

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